どうも、ふんどし男マイタケです。
世の中にはサラリーマンが腐るほどいます。
しかし、自分の会社が好きで好きでたまらない人というのはそれほど多くありません。
「フリーランスになりたい!社長になりたい!・・・でもどうすればいいかわからない・・・」
「そもそもどんな人が、どういう思いでやっているんだろう?」
「すでにやっている人の話を聞いてみたい!」
そんな思いに応えるべく、私が実際に会いに行って話を聞いてきました。
年齢不詳なDr.みわ
11月某日。新宿のとあるカフェにて待ち合わせ。
そこには、時には20代に見える瞬間もあれば40代に見える瞬間もある、年齢不詳の女性がいた。
御歳は聞いたがここでは秘密にしておこう。聞いた時は衝撃を受けたということだけ伝えておく。
今回は写真OKということだったので、御尊顔をば。
昔の写真も見せてもらったが、今と全然違っていた。ちなみに整形手術は一切していないとのことだった。人体って不思議!
今回は、音楽業界から離婚、顔面麻痺を機に恋愛業界に進出したDr.みわの半生を綴っていく。
Dr.みわの生い立ち
音楽でお金を得た小学生みわ
小学生みわはふざけた小学生だった。ひょうきんでいたずら好きの泣き虫だった。
外では活発で、木に登ったり、ブロック塀を登ったり、秘密基地を作って友達とお菓子やジュースで宴会をした。
また地層や石に興味があったので、川に行って化石を取ったり、貝塚に行って化石を取ったりもしていた。
しかし家では大人しい子で、姉とは毎日けんかして泣かされていたのだった。
また小学生みわは音楽をやっており、運動会などでは校歌斉唱時の指揮者をやるほどであった。
彼女は絶対音感を持っていて幼稚園からエレクトーンを始めたのだが、幼稚園児みわは聞いただけでその曲を弾けるほどの能力者だったのだ!!
小学生当時、吉祥寺の大通りの街角で音楽を奏でる仕事があり、母、姉、自分で毎週日曜日はエレクトーンを9時から17時まで弾いていたとのこと。一日500円で。
この頃から音楽でお金を稼いでいたというわけである。
マンドリンを始めた中学生みわ
中学生みわはエレクトーンを辞め、マンドリンクラブに入った。
音楽はずっとやりたいと思っており、姉がマンドリンを持っていたので、大人数のマンドリンオーケストラをやることにした。
土日も部活があり、当時はとにかく部活に熱中したのだった。
中学生みわのひょうきんな性格は変わっておらず、志村けんのモノマネをよくしていた。
志村けんに本気で弟子入りしたかったが、親に相談したら「危ないからやめなさい」と諌められたため断念。
ひょうきんではあったが恥ずかしがり屋だったそうで、好きな先輩がいても話にいけず、先輩への差し入れも友達に渡して物陰から見つめていたほどであった。
音楽漬けの高校生みわ
受験勉強が嫌いで「学校から帰ってまで勉強してたまるか」と思っていたため、塾に行かずとも行ける高校を選択。東京都立の高校へと進学を決めた。
高校生みわは次にどの楽器をやろうかと考えていた折、姉はキーボードを始め、母親がドラムを始めた。
母親に至ってはドラムを「つのだ☆ひろ」に教えてもらうようになったとのこと。そして「先を越された!!」とショックを受けたのだった。
そんな中、ライブハウス行くと「なるちょ」というベース界で有名な人が目の前におり、それが滅茶苦茶かっこよかった!!
そして「これだ!」と思い、その人が教えてた所に学校をサボってまで行ったのであった。
学校、ライブハウス、学校、レッスンのような生活を高校3年間続けて、「ベーシストとしてプロになろう」と心に決めていたのだった。
ちなみに高校生みわはかなりモテていたようで、月1で告白されていたのだそうだ。しかも学外からも来ていたそうで、本人としては「ぽっちゃりしていて今の半分程しか目が開いてなかったのに・・・」と不思議そうにしていた。
ベーシストを諦め作曲家となった作曲家みわ
高校時代に個人レッスンで教わっていた流れでベーシストへの道を作ってもらえたが、手の筋の構造が人と異なり、ベーシストとしてやっていくには厳しいという現実を突きつけられた。
手術をすれば治るかもしれないが、最悪ベースができなくなるかもしれないという状態だった。
結局人脈を辿り、作曲家の道へ歩み始めたのであった。作曲家みわの誕生である。
作曲家みわは子供番組の音楽や、音楽制作用のソフトを作ったりしてた。すなわち、音色作ったり、着メロみたいなものを作っていた。
人から歌詞をもらい、それに曲をつけたりもした。
またテレビで流れる曲も作った。ご存知の方もいるかもしれないが、パオパオチャンネルのピッカピカ音楽館でヤーレンソーラン北海道が凄く流行った時に作曲をしていて、「ジャンボジェットテイクオフ」という飛行機が飛び立つ曲を作ったのが作曲家みわである。
家の地下室に音楽制作の機材が揃っており、それで全てがまかなえていたという充実っぷりであった。
離婚によりアルバイト生活へと転落
作曲家として充実していたある時、作曲家みわはボーカリストと知り合い、その人と結婚。旦那が会社を経営し、自分は作曲家みわから主婦みわとなった。
が、2年間付き合い、18年間結婚生活をして離婚することとなってしまう。
それまでいい生活をしていたが、ブックオフやスーパーなどでバイトをする生活となってしまった。アルバイターみわになってしまったのである。
アルバイターみわは、バイト先であるスーパーのレジで嫌がらせにあってしまう。
そしてそのストレスにより、左側の顔面麻痺になってしまった。左目が眩しく、左目だけ瞬きできなくなった。
ベル麻痺という診断を病院で受け、3ヶ月ビタミンB13を飲み続けたらなんとか治り、アルバイターみわからの脱却を図ることとなる。
Dr.みわ爆誕
アルバイト生活の末、大手の結婚相談所に行き、そこから個人事業主となった。
結婚相談所経由で自分で自分のお客さんを見つけ、そして収入にしていくという仕組みであった。
そうしていると、「一般社団法人 日本ブライダルソムリエ協会」の理事長を紹介してもらうことができ、会社を設立。Dr.みわ爆誕である。
結婚相談所にいた時はその会社のシステムで集客ができていたが、自分の会社では自分で全てをやらなければならず、かなり苦戦した。
しかし色々な人脈によりなんとか軌道に乗せることができ、今に至るというわけである。
Dr.みわここにあり。
Dr.みわの現在
Dr.みわとしては、「結婚相談所もいいけど、個人で恋愛サポートをしたい。」という思いが強いのだそう。
「自信がなくて恋愛に臆病になっている人が何でも話せるような人になりたい。」
「基本は人生楽しくなので、今まで恋愛してこなかった人にも楽しさを感じて欲しい。」
と話してくれた。
Dr.みわの恋愛講座は動画となっており、一人でこっそり勉強できるオンライン講座になっているそうだ。
セミナーもやっており、まずは女性を知るところからはじまるとのこと。
最近では、東京ラバーズアカデミーという所で「夜の特別レッスン」をやったのだそうだ。
内容としては、男性はA●で色々知ったりするが、それでは自分本位になりがち。それを女性目線で解説し、女性は本当はこう思っているのですよという講座などだそうだ。
「一番は自信を持ってもらって恋愛を楽しんでもらいたい。」
「世の中、少子化少子化と言っても恋愛をしないと結婚にならない。誰のための結婚なのかをちゃんと考えてほしい。」
と語ってくれた。
ちなみにDr.みわは今が人生最大のモテ期だそうだ。流石恋愛コンサルタントだなと感じた。
そんなDr.みわに興味がある方はHPやブログがあるので、是非足を運んでもらいたい。Dr.みわについてより深く知ることができるはずだ。
将来の夢
Dr.みわの将来の夢は、暖かい所に住んで貝を拾いたいとのこと。
実は1曲だけ歌詞も曲も作ったものがあり、それを世の中に出したいのだそうだ。
この曲は心が塞ぎ込んでいる人に向けたもので、そういう人が元気になって欲しいという願いを込めたそうだ。
独立したい人へ
Dr.みわに独立したい人へのメッセージを聞いた。ドクターからのお言葉なのでちゃんと心に刻んでおくように。
「当たり前に生活しているが、一度の人生なので一番楽しめることをやったらいい」
「何を一番大事にしたいかをその都度考えていってほしい」
オススメの本
Dr.みわのオススメの本は、中井英夫の虚無への供物。
二十歳のときに作家にもなりたくて本を滅茶苦茶読んだそうで、その時特に好きになったのが中井英夫だったそうだ。
当時たまたま装丁と題名に惹かれて買ったそうだが、読んだらとても面白くてハマったのだとか。
とにかくマニアには堪らない本で、引き込まれる本なのだそうだ。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
今回は恋愛・結婚コンサルタントのDr.みわとお会いすることができました。
Dr.みわはシステムエンジニアのためのモテ講座も行うそうで、私を含めなかなか恋愛・結婚ができないシステムエンジニアは一度講座を受けるなりしてみてもいいのでは思います。
人生は一度きり。Dr.みわの言う通り、独立したい人は今一度自分の人生にとって何が一番大事なのかを考え直してみてはいかがでしょうか。
さて次回はどんな人とお会いできるのでしょうか。とても楽しみです。
以上、マイタケレポートでした。
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ここまで読んでいただきありがとうございました。